俺があけおめって言ったらあけおめなんだよ

こんちは、新年明けましておめでとうございます。

54期歯茎でございます。

 

練習は近頃とんとしておりません。病的に起きられないので、日曜は起きたら半日or一日が終わっています。その代わり大学まで往復40km、そこそこ踏んで頑張ってますよ。

 

時は2023年元日に遡る。ペルティナクスがローマ皇帝に即位し、奴隷解放宣言が布告され、イギリス国鉄が誕生したこの日、中学二年から毎年共に日の出を見に行っていた友人たちが、とうとう誰1人集まらなくなった。自分の人望のなさを実感させられる一年であった。

以前から呼びかけは大晦日、中身のない議論の末目的地が決まるのは年が明けてからという適当ぶりに加え、彼らの腰の重さと言ったらボトルを3本にツール缶を装備した鉄下駄caad8といい勝負である。

出不精で何かあれば面倒臭いと抜かす彼らは、しかしこれまではなんとか気分が乗っていたのか日の出鑑賞に付き合っていたのだが、小田急や常磐線が終夜運行を取りやめたのをいいことに、とうとう適温環境下での睡眠に屈したのである。

残る一名もいわゆるドタキャンを決め、もう誰も信じないと誓った私は1人村山貯水池へと向かった。そう、あの村山貯水池である。

 

しかし工大祭の準備や片付け、3Q末試験などと言い訳を重ね家に引きこもっていた体にとって、青梅街道の路面の凹凸は堪えるものがあった。

もっとも、それにも増して普段着でのライドによる負担が大きかったことはいうまでもない。目指す村山貯水池の先には毎年訪れる祖父宅があった。練習日記のネタにしたかどうか定かでないほどのはるか昔(去年の6月ごろだったと記憶しているが)タカシと共に祖父宅に立ち寄り、不審者の見本のような格好でイオンモールを彷徨った経験が、私にTシャツとセーター、上着を押し付けたのだった。

空気抵抗にも増して普段着は熱の放出を拒み、汗がじっとりと背中を濡らした。リュックサックがそれに同調し、巡航速度は次第に低下した。背中の守りの硬さに狼狽えた真冬の冷気はその標的を手先に変え、容赦無く指の感覚を奪っていった。ましてや前日は昼食もなく、夕食はそば一杯と、少々エネルギー不足である(余談だが、夕食は年越し中華そばであった。すなわちただのラーメンである)。

道中セブンイレブンにてカレーパンを摂取し、同時に板チョコも手に入れた。

店員の「チョコ溶けちゃうから、別の袋にしましょうか」というのが、家族以外との今年最初の会話である。

初日の出といえば板チョコである。異論は認めない。

 

さて、村山貯水池の西岸、六道山公園展望塔に着いたのは、あと少しで6時という頃であった。

人の少ない公園との評判にも関わらず、公園内は若者の巣窟となっていた。

のちに聞いた話ではあるが、流行病の所為か、例年より人出が多かったようである。

事前に調べた情報にはなかったが、どうやら展望台は6時になるまで解放されないようである。4時ごろに来て展望台の前方に陣取るつもりではあったが、遅れてきたにも関わらず場所取りに間に合ったという意味では運が良い。

遅れた原因はサングラスが見つからなかったこと、リアライトの台座のゴムが見つからなかったことである。

余談だが、来年こそは日の出を見にいかんとする方には、4時ごろの到着をお勧めする。おそらく人はまばらであろう。一番乗りを目指したい方には2時ごろの到着と、七輪などの暖房器具の持参をお勧めする。さもなくば延々とスクワットで脂肪を熱に変える羽目になるだろう。

 

集まった若者はどんちゃか、どんちゃかと騒ぎ立てていた。数メートル先も見通せない暗闇の中でよくもまあこれほど騒げるものである。彼らが世にいうDQNであるかは定かではないが、私にとってはまさしくDQNであった。たとえ彼らが心新たに日の光の洗礼を浴びにきた如何に善良な若者たちであっても、私の辞書には彼らの騒ぎ、喚く姿が記憶の写真付きで掲載された。

そしてその項の解説にあるとおり、彼らは5人ばかりで私に馴れ馴れしくも話しかけてきた。これほどサイクルジャージで来なくて良かったと思った日はない。

「君どこ中?」と聞く彼らに、「こう見えて大学生なんですよ」と返すとええっと驚きつつも

揶揄ったのに馬鹿正直に答えて全く面白い奴だ、と言わんばかりの顔で、「どこの大学ですか?」と聞いてきた。

何処だと思う、と聞くと帝京平成大学、との返答。あたり、と今度は私が揶揄ってみると、ええっと驚いた。他のリアクションも学んで欲しいものである。

うそうそ、実はね。といって大学名を明かしたが彼らはピンと来ないようであった。聞けば彼らは12人という大群でやってきたらしい。DQNの群れは私を揶揄うのに飽きたらしく、此処は毎年こんなに混むのですか、という私の問いを無視して何処かへ去っていった。

私を中学生と揶揄ったDQNたちであったが、偶然にも手持ちの服の中で最も良い服、最も大学生らしい服装だったにも関わらず、失礼千万である。服選びを任せた吉田の所為だと思うことにした。全くくさそうな奴である。

 

展望台の開放と同時に、DQNの群れは階段を蹴り上げ、まだ太陽の上らぬ空へと駆けていった。さながら缶詰の開く音を聞いた猫のようである。

私は階段ダッシュトレーニングの趣味はないので、階段が空いてからゆっくりと登っていくことにした。

最上階まで上がると掃除機に引っかかったゴミ袋の如く東の壁に吸い付くDQNを尻目に、私は群れを避けて西の壁際に腰を下ろした。壁といってもちょうどこの時期日の入りの方角は角になっており、非常に居心地が良い。わざわざ人波をかき分けずとも、1㍍ほどの壁によじ登り腰掛けることで、柄の悪い埼玉県民の頭の上からご来光を拝むことができるのだ。

 

日の出直前には人の数は150ほどに膨れ上がり、溢れたものは階段に立ち尽くして3階の壁を眺める始末であった。なんとか最上階に辿り着いた者の多くも、見つめるのはDQNの派手な髪色か、警備員の後頭部の一足早いご来光であった。

この日東端に次いで最も良い場所を確保した私は板チョコを片手に音楽に耳を傾け、日の出を待った。密度の低い割に居心地の良いこの西の端であるが、壁に腰掛ける際に誤って居眠りでもしようものなら、15㍍ほどのスカイダイビングを楽しむことになるので注意が必要である。

 

 

肉眼キラー

太陽系の中心たる恒星が空に輝き始め、10の二乗ほどの回数では払えない煩悩にまみれた惑星を照らし始めた。地元の人間が必死で伸ばした手に握った携帯電話の画面越しに日の光を浴びる中、余所者の私は彼らの頭上から光るそれを仰ぎ見るのである。世にいうキモチェである。

ご来光に向けてモンストのガチャ引いてるアホがいた。
そんなもんにご利益があるなら俺だって日の出見ながらTOEIC受ける。

太陽が昇り切ると、皆帰り支度を始めた。ここからがConclaveである。5.4インチディスプレイを搭載した文明の利器を片手にひたすら「こいつもう明るくなってんのに何待ってんの?」という他人の視線を耐え抜き、体感で30分ほどした後、ようやく辺りは私1人になった。

お待ちかねの朝食である。多くのJapanese peopleがそうするように、私もお節料理をいただくこととした。

465kcalのお節料理

しかし埼玉県とは残酷な土地で、朝食を摂取し始めてからというもの、私1人となったはずの日が登りきった展望台を幾度となく人々が訪れ、「なんでこいつ1人でカレーメシ食っとんねん阿呆ちゃうか」といった好奇の視線を投げかけ続けた。煮込んだスパイスとドロドロのルーで恥ずかしさに蓋をし、堂々と米を平らげる以外に選択肢はなかった。そんな被害妄想を抱く捻くれた21歳に、最後に訪れた二人組の女性は「今日此処混んでましたか〜?」と気さくに話しかけてくれた。

聞けば2年ほど例のウイルスによってこの展望台は元日も解放されず、3年ぶりに解放されたことを知らなかった彼女らは川越方面の橋を訪れていたようである。帰りに此処へ立ち寄った、と語る彼女らが指差した先には、朝日に赤く染まるフジヤマがさも当然のように佇んでいた。

 

日本で天国に最も近い場所

元日は叔母の誕生日でもある。昨年は手袋を渡したのだが、今年はケーキを買うことにした。ところが元日からケーキを販売する店はそう多くない。まったく埼玉は辺鄙なところである。東京ならばいくら元日とはいえケーキ屋を見つけるなど造作もないだろう。

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> ここ、ギリギリ東京だった <
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展望台下のベンチは居心地が良く、googleの勧めるケーキ屋を品定めする間、どうやら半時間ほどうたた寝をしてしまったらしい。

再びたまごっちを起動し公園を離れると、湖の東側をぐるり半周ほどして目当ての洋菓子店を目指した。

 

開店と同時に入店した私に店主は「明けましておめでとうございます」と挨拶してくれたが、思いがけない歓迎の言葉に私はオドオドと「ウス、オメデザス」と小声で呟くことしかできなかった。幸先の悪い一年である。陰キャは滅ぶべきである。

ケーキを購入し、会計を済ませた私に、店主は良いお年を、と挨拶してくれた。思いがけない丁寧な挨拶に私はキョドキョドと会釈をするばかりだった。陰キャは滅ぶべきである。

 

ビニール袋を揺らさないよう慎重にペダルを回し小さな峠を超えた頃には再び背中はじっとりと濡れていた。

午前11時、豪華なお節料理を用意して私を歓迎してくれた祖母、叔母の横で祖父の位牌に線香をあげ、私の一年が始まった。

 

 

⌘ケーキ、美味でした